エゴと戦う 稲盛和夫氏の講演より。

稲盛和夫氏の講演では、経営者の姿勢を厳しく言い切っている言葉が多くあります。
多くの印象的な言葉から、経営者のエゴについて、自らの経験を通して語られたのが次の言葉です。

 つまり、我々が生きている人類社会は、壮大なドラマだと思うのです。劇場です。その劇場で、たまたま私は京セラという会社をつくる役割と、京セラという会社の社長を演ずることになった。ただし、それは「稲盛和夫」である必要はなく、そういう役割を演じられる人がいればよい。たまたま、私であっただけなのです。私でも「Aさん」でも「Bさん」でも「Cさん」でも、みんな等しく同じ「存在」としか言いようのないものであって、社会の多様性のためにいろんな才能を持ってこの世に生まれてきたけれども、たまたま私という人間にそういう才能は与えられ、そういう役割を演じている。

 半導体が進化する中で、たまたま今日は私が主役を演じているけれども、明日の劇では別の人が主役を演じてもよい。にもかかわらず「オレがオレが」と言っている。そのことが、自分のエゴが増大していくもとになると気がつきました。

 自分の才能、能力を私物化してはならない。自分の才能は、世のため人のため、社会のために使えといって、たまたま天が私という存在に与えたのです。その才能を自分のために使ったのではバチが当たります。たまたまそういう才能を与え、たまたま京セラという会社を経営させただけなのに、エゴを増大させていっては身の破滅だと思った私は、それから自分のエゴと戦う人生を歩いていきました。

 インドの思想家であるタゴールは、詩の中でこんなことを言っています。
「私がただ1人神のもとにやってきました。しかしそこにはもう1人の私がいました。その暗闇にいる私は一体誰なのでしょうか。私はこの人を避けようとして脇道にそれますが、彼から逃れることはできません。彼は大道を練り歩きながら、地面から砂塵を巻き上げ、私がつつましやかにささやいたことを大声で復唱します。彼は私の中にある卑小な我、つまりエゴなのです。主よ、彼は恥を知りません。しかし私自身は恥じ入ります。このような卑小なる我を伴って、あなたの扉の前に来ることを」

 タゴールはエゴというみっともない卑しい自分と、ピュアな素晴らしい自分があることを描いているのです。

 イギリスの哲学者、ジェームズ・アレンという人も、こんなことを言っています。
「人間の心は庭のようなものです。それは知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからは、どちらの場合にも必ず何かが生えてきます。もしあなたが自分の庭に、美しい草花の種をまかなかったら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります」

 手入れをしなければエゴという雑草がいっぱい生えて、エゴだらけの心になってしまう。自分で雑草を引き抜き、耕し、そこに美しい草花、つまり良心、真我という種をまいて育てなければ、心は雑草にまみれてしまう。油断も隙もないくらいに、心というのはエゴで満たされやすいのだと、アレンは教えているのです。