会津藩殉難者墓地 黒谷 金戒光明寺 京都

会津藩殉難者墓地 黒谷 金戒光明寺 京都

私の先祖のお墓のある黒谷(京都)西雲院のすぐ横に会津藩殉難者墓地がある。

幕末・会津藩の二大悲劇の一つは白虎隊で、もう一つは京都警備である。ここ黒谷には、京都警備にまつわる葬られた日本史が語り継がれている。

文久2(1862)年閏8月、会津藩主松平容保は京都守護職に任ぜられ、同年12月24日、家臣千人を率いて京都に到着し、京都所司代、京都町奉行所の出迎えを受けて本陣の黒谷金戒光明寺に入陣した。

黒谷金戒光明寺は、自然の要塞になっており、御所や粟田口にも近く軍事的要衝の地である。大きな寺域を持っており一千名の軍隊も駐屯することができた。

当時の京都は、尊攘激派による暗殺の坩堝と化していたが、守護職となった会津藩は治安の維持にあたった。しかしながら会津藩の犠牲は大きく、戦死や病死する者が続出する。

そこで本陣の金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られた。その数は文久3(1863)年から慶応3(1867)年までの6ヶ年に237霊を数え、後に慰霊碑を建立し、慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦いの150霊を合祀した。

會津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客 會津小鉄」の墓がある。會津小鉄は本名上阪(こうさか)仙吉といい、會津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏は、新選組の密偵として大活躍をした。

しかしながら、會津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分200余名を動員し、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したという。

以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に黒谷會津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っている。現在西雲院では、6月の第2日曜日に會津藩殉難者追悼法要を會津松平家当主も列席して京都會津会主催で盛大に勤められている。

今年(2013)のNHK大河ドラマ「八重の桜」では、会津藩が幕末京都での役目を描いており、会津藩殉難者墓地のことを想うと会津の人たちを偲ばずにはいられないのである。

画像クリックで会津藩殉難者墓地の動画(Youtube)を再生します。

 

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